丸山邦雄 プロフィールと家族|息子のポール邦昭さんの現在、嫁の万里子夫人はどんな女性だった?

NHK総合にて、【前編】3月24日(土)21時00分~【後編】3月31日(土)21時00分~の放送日程で、NHK特集ドラマ「どこにもない国」がテレビ放送予定。終戦後、旧満州に取り残された150万を超える日本人の帰国に奔走した男たちの姿を描くと言うあらすじのドラマで、原作は、丸山邦雄の息子・ポール 邦昭 マルヤマ著「満州 奇跡の脱出」を原案に描かれている。丸山邦雄や、彼を支えた嫁の丸山万里子夫人とは、どのような女性だったのか。また、息子のポール 邦昭さんは、現在どうしている?家族の人物や略歴・経歴、プロフィールについて書いています。

終戦直後の「満州国」では、一体何が起きていたのか?

「満州国」には、夢がある。
農村人口の過剰により、次男以下は働き口がなかった時代。
満州に行けば十町歩(約3万坪)以上の広大な土地が与えられる。みんな希望に萌え、子供が生まれ、未来のある生活を夢見た。
しかし、数年後の終戦直後、彼らを待ち受けていたのは、あまりにも酷い運命。

終戦直後、日ソ不可侵条約を無視して、ソ連軍が無鉄砲に在留日本人を襲撃。
関東軍はとっくに逃げており、盾も剣も、鎧もない民間人だけが取り残された世界で、ソ連軍は、荷物や衣類を剝ぎ取るばかりではなく、夫人への暴行も働いた。終戦当時の満州では、ソ連軍や中国人など共産党軍や国民党軍で、溢れ、現地法人は、危険な状態。奉天には、各地から日本人が避難し、難民収容所となった小学校には、病気の老人、飢える子供、膨大な量の死体で溢れかえっていたという。

ー暴行、殺害、饑餓、凍死。

こうして、旧満州国に取り残された日本人の数は、150万人を超えると言われ、同胞の帰国のために働いたのが、今回ドラマ化された人物・丸山邦雄氏です。息子のポール 邦昭 マルヤマ氏によれば、丸山邦雄氏は「どこにもない国」を追い求めるユートピアの思想を持っていた、たとえGHQ統制下に敷かれた敗戦国でも、人間が諦めなければ、正しい国の形を追い求めれば、必ずユートピア=理想郷になっていくと信じた学問に裏付けられた確信があったようです。

そして、資金力に富む実業家・新甫八朗氏(ポール・邦昭・丸山氏曰く、経営していた会社の中国人従業員の信望も厚く、中国国民党の地下司令部と接触できたのも、そうした人のつながりからだった。)と、中国語を操る快活な若者・武蔵正道氏(ポール・邦昭・丸山氏曰く、中国語に通じ、やはりその人柄から中国の人たちの強い信頼を得ていた。)と、ともに日本人の引き上げに奮闘した立役者。

ドラマの概要、あらすじ、キャスト、原作についてはこちらの記事で書いています。

NHKドラマ「どこにもない国」原作は 丸山邦雄の息子・著「満州 奇跡の脱出」あらすじ・みどころ・感想

2018.03.24

丸山邦雄氏のプロフィールと家族

丸山 邦雄 (まるやま くにお)氏は、1903年(明治36年)6月2日長野県下水内郡柳原村生まれ。
旧制高校卒業と同時に明治大学法科に入学、法律を学び、1930年(昭和5年) 明治大学卒業後は、渡米留学し、ピュージェットサウンド、ジョージ・ワシントン、コロンビア大学で、政治経済学を専攻し、学士・修士の学位を取得。1938年(昭和13年)に帰国し、渡満し、鞍山市に本社がある昭和製鋼所本社に入社すると、調査、報道及び社員教育を担当。

1945年(昭和20年)終戦直後、当時42歳の丸山は、新甫八朗(当時32歳)、武蔵正道(当時24歳)らとともに全満カトリック教会管長・大連カトリック教会 レイモンド・レイン司教、全満日本人会長 高碕達之助らの協力のもと、高碕からの日本政府宛の密書を携え、1946年(昭和21年)3月9日、危険を冒しながらも密かに満州を脱出し、海路にて同年3月13日、山口県仙崎に上陸を果たす。

在満同胞救済代表として上京、ラジオ放送や日本各地において在満同胞救済の世論喚起や演説を行う。また、英語が堪能な為に、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー本院や、その相談役であるパトリック・バーン神父、吉田茂外相、佐藤栄作鉄道総局長官(のち首相)らと直接面会して、救出への交渉や働きかけを行い、終戦から8ヶ月後の1946年(昭和21年)4月、安全の確保や飢餓、流行病に苦しむ旧満州に取り残された170万日本人同胞の脱出・祖国引き揚げ実現に結びつける(葫蘆島に立つ石碑には105万1047人が救出されたとある)。

(参考元:ウィキペディア)

丸山邦雄氏の嫁、万里子夫人は、どんな人?

山万里子さんは、旧姓Mary Takeda(武田万里子)。

🔽1937年当時の松山邦雄と妻のメアリー万里子夫人


(出典元:満州NHK特集ドラマ『どこにもない国』を巡る (洋泉社MOOK))

アメリカ生まれの丸山万里子さんは、国籍はアメリカですが、日系二世で、日本の大学を卒業するなど、本人は祖国は日本と捉えていたようです。
カトリック信者で、信仰が暑く、丸山邦雄が家を空けている間も子供たちを守ったつよい女性。ポール 邦昭さん曰く「満州では、いつも母が私たちを守ってくれていました。大連にいた時、ソ連兵が数回自宅に侵入しましたが、いつも母が『Take what you want,and get out of here!(好きなものを持って出て行け!)」と英語で、兵士を追い払っていたそうです。兄弟からは、両親について「父は150万人の日本人を満州から救うのに貢献したが、母はわれわれ四人の命を救ってくれた」と聞かされていたほどに、母はつよしだったのです。

丸山邦雄氏とは、ピュージェットサウンド大学で出会います。
二人は、四男二女の子供に恵まれますが、そのうちの一人、三男のポール 邦昭さんこそ、このドラマの原作となる「満州 奇跡の脱出」の執筆者。

丸山邦雄氏の息子、ポール 邦昭さんは、どんな人?

ポール 邦昭さんは、1941年東京生まれ。

引き上げ当時は5歳で、その後、アメリカのサンノゼ州立大学を卒業氏、アメリカ合衆国空軍に入隊。
1964年、東京オリンピックの際に、柔道のアメリカ代表選手となり、5度の世界選手権にアメリカ代表選手として参加し、1980年と1984年には2度にわたり、全米オリンピック主任柔道コーチを努めます。

🔽1973年当時のポール 邦昭さん(左端)と、その御成は妻のラレーさん、娘のキャサリンさん。一家が国分寺に住む丸山邦雄さんと、その妻のメアリーさんのもとを訪れた際の写真。


(出典元:満州NHK特集ドラマ『どこにもない国』を巡る (洋泉社MOOK))

空軍を退役後は、コロラド・カレッジアジア諸国語学部日本語教師として、教鞭を執る傍ら、10年以上南コロラド日米協会会長を歴任しますが、2年前に退職しています。

ここ20年にわたって、日米の草の根交流にボランティアとして力を注ぎ、別名「万次郎サミット」と呼ばれるその交流の、アメリカ側の理事のひとり。2013年春、日米交流への長年の貢献から、ポールさんは旭日小綬章を受章することが決まり、6月にデンバーの日本総領事館で授与式が行われ、

「国籍はアメリカだけれど、人種としては日本人。日本文化を愛し、日本人を愛し、日本に尊敬の念をもっています。日本の血を引いているということは私の誇りです。日本人は本当に真面目で素直な人種だと、私だけじゃなく世界の人が思っていると思います。もちろん全部が全部ではないでしょうが、一般的に日本人ほど真面目な人種はいないと思います」(参考元:歴史の事実を知り、交流をつなぐことの大切さ。 | STAGE ∞(infinity))

と、インタビューで答えています。

そして、出版までに約6年の年月をかけたという「満州 奇跡の脱出」の執筆。

「父たちの満州脱出の話は、第一に若い世代の人たちに知ってもらいたい。自分たちのおじいちゃん、おばあちゃん、あるいは、もう1世代上の人たちが大変な苦労をしたこと、戦争の恐ろしさ、平和の尊さを知るためには自分の歴史を知っておかなければならないと、私は深く思っています。特にこの満州の悲劇は、もっと日本国民に理解していただきたい。この事実を知らなければ、また過ちを起こす可能性がありますから…」(参考元:歴史の事実を知り、交流をつなぐことの大切さ。 | STAGE ∞(infinity))

と、警鐘と理解を呼びかけています。

ドラマの概要、あらすじ、キャスト、原作についてはこちらの記事で書いています。

NHKドラマ「どこにもない国」原作は 丸山邦雄の息子・著「満州 奇跡の脱出」あらすじ・みどころ・感想

2018.03.24

おわりに

平成生まれの筆者は、全くと言っていいほど、戦争について考える機会はありません。
時々、戦後〜周年記念TVなどで、その歴史を知ったり、何年か前に卒業した大学の講義で世界事情を知ったり、ただ、教養レベルなんですよね。
今回、ドラマ化に際して下記のガイドブックも購入して、読んでみたわけですが、満州国の歴史は、想像しても仕切れないほどのもの。

当時5歳だったポール 邦昭さんは、覚えている記憶は、常にお腹が空いていたこと、というので、その現実がいかに悲惨だったかが伺えます。
自分の死を間際に、家族や同胞の命を最優先に考え、行動できた真の強さ、争う強さ、こういった状況になってみないとわからないですが、その強さだけは本物だったということがわかりました。

 

ドラマの概要、あらすじ、キャスト、原作についてはこちらの記事で書いています。

NHKドラマ「どこにもない国」原作は 丸山邦雄の息子・著「満州 奇跡の脱出」あらすじ・みどころ・感想

2018.03.24
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8 件のコメント

  • 私は昭和11年3月に北朝鮮平安北道で生まれた82歳です。日本への引き上げはなかなかできず、公務員の父の努力で昭和22年1月に
    ようやく佐世保に還りちきました。終戦時は小学校4年生で、満11歳。満9歳で日本人学校はなくなり、兄弟5人の真ん中の私はそば屋の丁稚小僧や医者の汚物処理係、ソ連兵の赤子の守など僅かながらも収入を得て家庭の足しにしていました。
    終戦時のソ連兵の進入時には、番組にあった略奪や婦女暴行など同じシーンを見て、子供心にも忘れられない場面でした。時計を欲しがる彼らの仕草は全く異常でした。
    私の住んでいた町(厚昌)の警察署長の奥さんは主人がシベリアにおくられ、残された彼女はロスケにレイプされて妊娠しました。S21年になると、やや落ち着き、私の姉たちも仕事に就くことが出来、内地に還ることができました。

    • 小生は昭和8年生まれで現在84歳。戦後の満州でのソ連軍による日本人への虐殺、レイプなど現在では信じされないほどひどいものであったと聞かされました。日本は貧しく満州は希望の国になるはずでしたが、悲惨な結果になりました。いつも思うのですが、戦争に負けて大変な結果になりましたが、少なくとも占領軍がアメリカ軍でソ連軍でなくて不幸中の幸いでした。
      私の記憶では日本の軍隊は国民には非常に威張りましたが、いざとなると国民はほたらかしと言う感じがします。
      “どこにもない国”は大変貴重な歴史的文献です。今の若い人たちにも知ってもらいたい日本の重要な歴史です。

    • 亀山寿志さん

      当時は、11歳とのことですが、とてもリアルな描写で、それが私の想像を超えていて、少しびっくりしています。
      (時計は、当時貴重だったということでしょうか?)
      大変、お辛い記憶、わざわざ伝えてくださって、ありがとうございます。何より、帰国できて良かったです。
      こうしてドラマ化されるにあたり、自分でもいろいろと調べてみると、歴史教科書の内容、私たちが受けた歴史の授業は現実とは異なっているようですね。
      関東軍は悪者、日本人は侵略者と教わった記憶があります。何が正しいのか、よく理解しないままに伝えてはいけませんね。

  • 私は昭和21年3月ごろ奉天で母のお腹に宿った(胎児)ものです。21年9月の引き上げ組です。大きなお腹で引き揚げの苦労をした母からよく満州での生活のことを聞かされました。引き上げが出来たのが丸山、新甫、武蔵さんたちのご努力によっていたことを、このドラマで初めて知り、感動するとともにご三人の方々に感謝するばかりです。ちなみに父は満鉄社員でした。私は22年1月6日日本で無事生を受けることが出来ました。在満中は胎児でしたが、母のお腹の中から回りで起きていた引き揚げの混乱の光景を観察していたようで、現在でもその影響を受けているように感じます。

    • 私は大連から引き揚げてすぐ21年12月8日に生まれました。引き揚げ船のことを
      本で見て母の苦労を想像してきました。母は多くを話しませんでした。綺麗な景色ばかりを繰り返していました。私は誕生日が真珠湾攻撃の日のせいか戦争と平和にかかわりながらの人生を歩いてきました。今は慰霊の旅を続けています。私と同じような人がいたと知りなんだかお会いしたくなりました 。ドラマを繰り返し見ながら思う事があふれています
                            神﨑潔香

  • 大変 近年に ない、スケールの大きいドラマで、2話とも 3度 拝見させて頂きました。もう2回位拝見させて頂きたいです。
    この 三人の方々の、家族を、犠牲にしたり、武蔵様は、命も
    危う状態で、満州の日本人を、救ってくださったのを、知り
    今も 感動の一言です。わたくしの大叔母も、満州の引き揚げと
    聞いていたので、三人のヒーローのお陰で、ございますね。
    邦夫様が、この本を、お書きになり 日本人が、知り得ない情報を、今何万人の日本人に、感動を、与えたか、、、昨日は、
    ずーっと考えていて、眠れませんでした。素晴らしい 「命」がどんなに大切だという事を、確信させて頂き 本当に 本当にありがとうございました。

  • 私は昭和16年2月にハルピンで生まれ77才になりました。引き上げは小学校に入る前でしたが、いろいろ記憶に残っています。母から聞いたことも沢山あります。引き揚げのとき妹と手をつなぎ母は乳飲み子をせおい、前には、リュックを下げ父は前後にリュックを背負い、集団で歩き、貨車にも乗りました。途中で父が(男性達)が
    ロシア人に連れて行かれ、そのときに父がもし何かあったら飲みなさいと母に渡したのが青酸カリだったそうです。荒野も頑張ってあるきました。炊き出しもあって「コウリャン」の雑炊も食べました。10日くらいして父達が帰ってきて合流しました。何故かわかりません。船も何処から乗って何処に着いたかも覚えていません。舟では、かぼちゃのお粥と乾パン、金平糖も入っていました。日本に着いたときは先日観たテレビのような光景だったのかと知りました。日本に着いて女の子3人無事帰ってきたのをみて、子供が途中で歩けなくなって、病死したりして置いてきた子供の事を思い号泣された方々もいらしたそうです。父母は亡くなりましたが、残してくれた物は私と妹の着物で引き揚げの時のリュックサックの中に入れて持ち帰ってくれたのです。それを今私が保管して、時々眺めては父母の生きて必ず帰るという強い気持ちと愛情とを感じています。そして私と妹が手をつなぎ
    大人と一緒に歩いて来た、歩けたというのも奇跡に思います。そして父が私に残してくれた言葉が有ります。それは、私達家族が海外勤務で出発の時でした。「現地の方々とは仲良くしなさい。大切にしなさい。発展途上国だから助けてあげなさい。現地の人を叱るときは沢山誉めてから叱りなさい」でした。この言葉の通り実行して、3年間の勤務を楽しく無事に終える事ができました。偶然観たテレビでしたが、満州での思い出は良きにしろ悪しきにしろ沢山有りますが私達を守って下さった丸山邦夫様はじめ沢山の方々のお力だったのだと改めて知り妹にも話して聞かせ一緒に感謝の祈りを致しました。

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