岡潔 数学の天才は精神病を患い逮捕?逸話と名言の数々残る「数学の思想家」結婚・家族、生い立ち・経歴について。

金曜ロードショー、特別企画 読売テレビ開局60年スペシャルドラマ「天才を育てた女房~世界が認めた数学者と妻の愛~」は【放送日程】2月23日(金)21時~【放送局】日本テレビ系にて放送。この物語のあらすじは、「多変数函数論研究」の第一人者、1960年、文化勲章受章を受賞した大阪生まれの天才数学者_岡潔(おか きよし)。彼の人生こそが原作となる。彼は、天才が故、誰からも理解されることのない、そんな苦悩と挫折を乗り越え、世界から評価を得るようになるまでの岡潔との人生・実話がドラマに。最期まで執筆活動に明け暮れていた彼は、数学の天才であり、エッセイ本を執筆し数々の名言を生み出した思想家でもあった。一方で、天才が故に精神病を患い「強盗事件」を引き起こすようになるなど逸話が残る。そんな彼の生い立ちや経歴、結婚と家族などの情報とともにまとめました。

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岡潔のプロフィール|生い立ちや経歴

岡潔は、明治34年(1901年)4月19日、大阪市東区島町に生まれた。父祖の地は和歌山県の山村で和歌山県伊都郡紀見村=現在の橋本市。和歌山県の紀見峠の坂を登り、頂上付近にたどり着くと、和歌山県の大阪府の県境付近に「岡潔生誕の地」の石碑が立っています。

岡潔のプロフィール|岡潔の研究内容と生涯の課題

岡潔は、「多変数函数論研究」の第一人者で、自ら「問題F」と名付けた「境界問題」に取り組んだことで知られています。数学的なことは私は詳しく書けないのですが、彼の理論がなければ現在の数学は成り立たないと言われるほどの研究成果をあげ、1960年の文化勲章受章など数々の受賞歴を持ちます。


(出典元:文化勲章受章者 世界的数学者「岡 潔」数学に対する熱意と偉業、情緒という日本人の心の大切さを未来に引き継ごう

なお、この問題について「境界問題はきっと解ける」「境界問題は可能性を持つ」、一方で「問題Fはやはり大変な問題である」「問題Fはあまりはっきりしない」と頭を抱えていたことが、彼の日記からわかりまが、この研究に費やした時間は40年、論文は11作品にも及ぶと言います。(参考元:岩波新書『岡潔 数学の詩人』より)

 

幼少期、紀見村の無住のお寺では、夏の暑い日に子どもたちが遊びに行くと、朝早くに岡潔が縁側に座り物思いにふける様子から、「きちがい博士」とのあだ名で親しまれていました。

岡潔のプロフィール|大学卒業後は、結婚し、教授に昇格という花街道

その経歴はやはり優秀で、1925年(大正14年)3月、京都帝国大学を卒業すると同年4月1日講師に就任。この日、河内柏原の小山玄松(おやまくろまつ)の四女で、のちに晩年の妻となる”みちさん”と結婚。ちなみに上の姉は順番に、みどりさん、あいさん、みよしさんというそう。また、夫婦の間には3人の子供が生まれます。次女の松原さおりさんは数学が苦手?以下の記事で詳しく書いています。

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(出典元:文化勲章受章者 世界的数学者「岡 潔」数学に対する熱意と偉業、情緒という日本人の心の大切さを未来に引き継ごう

岡潔のプロフィール|教授になったのに、フランスに留学?

実は、京都大学講師を勤めていた頃、高等学校の講師も兼任していたという岡潔。そうこうするうちに広島の高等学校に新たに広島文理科大学が設置されることになり、岡潔はその教官要員に選ばれることに。当時の慣例では、就任前に文部省在外研究員として留学することになっていて、北大の物理学者・中谷宇吉郎も教官要員としてイギリスに留学しています。欧米各国に学ぶことは今も昔も多いものですね。


(出典元:文化勲章受章者 世界的数学者「岡 潔」数学に対する熱意と偉業、情緒という日本人の心の大切さを未来に引き継ごう

パリではジュリア先生と呼ばれる方に、学び、帰国後は、拠点を広島に移し、広島文理科大学助教授に就任。そこで4つの基礎資料を残します。これらの中には、1936年に始まる連作「多変数函数論研究」の先駆けとなるノートもあり、フランス留学は、岡潔にとって研究の礎を見つけると経験になったようです。

岡潔のプロフィール|教育者としての一面も。

広島大学を辞任したのち、1941年北海道帝国大学理学部研究補助、1949年奈良女子大学理家政学部教授に就任。教鞭をとる中で、京都大学時代にはあの湯川秀樹、朝永振一郎もその講義に衝撃を受けたと言われるほどで、教育に関する論文を仕上げたりと熱心な教育者としての一面もあった岡潔。


(出典元:文化勲章受章者 世界的数学者「岡 潔」数学に対する熱意と偉業、情緒という日本人の心の大切さを未来に引き継ごう

岡潔のプロフィール|最期まで執筆活動

1925年に始まった「多変数函数論研究」に関する論文は11作にも及び、費やした期間は40年。

その後は、独自の宗教思想と民族主義思想を交えたエッセイを執筆するなど思想家としての様相を見せはじめ、1969年京都産業大学では理学部教授に就任しますが、数学はもっぱら教えず、教養科目の「日本民族」を担当。「春宵十話」など執筆活動に打ち込んだそうです。しかし、1979年1月2日の夜。元気に論文を書いていたというのに、突然自宅の風呂場で軽い心不全を起こし、意識不明に。1月10日、京都産業大学で最後の教鞭をとると、19日には起き上がることも、ペンを執ることもできなくなり、その年の3月1日未明。午前3時33分、死去、76歳の数奇な人生に幕を閉じました。


(出典元:文化勲章受章者 世界的数学者「岡 潔」数学に対する熱意と偉業、情緒という日本人の心の大切さを未来に引き継ごう

さて、そんな岡潔には逸話がいろいろと残ります。

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岡潔の逸話|一夜にして「強盗事件」の犯人に。岡潔の身に起きた異変と病気→伊東温泉で休養

ます一つ目の事件。

それは、フランス留学から帰国した1936年6月23日のこと。 この日、岡潔は、京都帝国大学の数学者・園正造の歓迎会に出席しましたが、途中で心身の調子が悪くなり、帰宅。なんとその後行方不明になります。翌朝自宅近くを流れる土手で発見された岡潔。

修道中学の夜学生たちによれば、岡潔は彼らを遅い、帽子や書籍、靴、自転車などを取り上げ、笹原に寝そべって、一夜を明かしたという。まぎれもない、強盗事件は新聞に掲載されますが、逮捕はされず、病気と診断され入院することになります。退院後は、伊豆諸島の中でも湯量が豊富とされる伊東温泉で、休養をとることになりました。この時の病気は、「躁鬱病」ではないかと見られています。ただ、この件について、エッセイ『春雨の曲』の中で下記のように綴っている点がなんとも気がかり。本当に、病気を患っていたと思わせるほど。

▼街中を流れる松川と東海館

(出典元:文化勲章受章者 世界的数学者「岡 潔」数学に対する熱意と偉業、情緒という日本人の心の大切さを未来に引き継ごう

私は家の後ろの小高い丘の斜面に、北西の方を向いて、笹原に背をもたつかせたまま、金星から来た娘の話を聞いていた。娘は私の今生の越し方、行く末を詳しく説明してくれたのであるが、私には夢の中の話のようであった。(引用元:岩波新書『岡潔 数学の詩人』より)

行方不明とみられた一夜の情景。岡潔はまるで星空と対話をするようにしながら、自分のこの先の人生をあれやこれやと、あるいは論文に関する構想をしていたのかもしれませんね。

というのも、岡潔が熱海に到着したのは、同年11月2日。伊東を離れたのは12月6日この1ヶ月間で、「多変数函数論研究」第2番目の論文を執筆。伊東では、留学仲間であった北大の物理学者・中谷宇吉郎と会う機会があったようですが、彼と話す以外、話し相手もなく、毎日退屈。そんな日々の中で、できることといえば、数学に耽ること。仕方がないから、数学の方面で仕事をしてやろうという気持ちで、論文を書いていたようです。

(参考元:岩波新書『岡潔 数学の詩人』より)

岡潔の逸話|天皇陛下を相手取り「北支事変」に直訴→事実上の大学免職

「強盗事件」から2年後の1938年1月16日のこと。

この日、岡潔は誰にも行き先を告げずに広島を立って上京。実は、当時戦時中であった日本においては日中戦争(1937年7月7日、盧溝橋の付近で生起したに中両軍の紛争で当初は北支事変と呼ばれていた。のちに支那事変と改名される。)が勃発。天皇陛下に戦争をやめるように直訴するために上京したという。日中戦争を機に、南京千両に及んだ日本。そのことが公表された12月13日、この日大学の研究室で一人岡潔は、「岡の原理」を発見。当時のことを回想した岡潔直筆のエッセイによれば、

「(事変の初めの頃)この国の選ばれた若人たちが、それこそ桜の花が散るように美しく散っていった。私は、こんなこと(戦争)を続けていると若い世代が良いものから良いものからと死んでいってしまうだろう、他にどのような利益があるのか知らないが、この損失に比べると取るに足らないものに違いないと思った」

(引用元:岩波新書『岡潔 数学の詩人』より)

とある。思いつめた結果、上京直訴と言う直球勝負に出た岡潔。ここまで正義感の強い人間が過去に強盗事件を犯したとは思えないが、なんともいたたまれない気持ちになったのでしょう。あるいは、1937年8月12日、親戚で嫁みちの甥にあたる北村駿一さんが当時20歳という若さで亡くなったことも、この事件に影響しているのかもしれません。岡潔は、この事件を機に広島文理理科大学を休職し、帰郷することに。1938年6月に静岡市内の病院で退院が決まると、大学側から事実上の免職が言い渡され、大学を辞職。

(参考元:岩波新書『岡潔 数学の詩人』より)

そんな岡潔は、数学を愛した人物に変わりはありませんが、一方で言葉巧みな表現者としての一面も。

岡潔の名言|独自の数学哲学を確立「数学は学問芸術」

例えば、「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術」と表現。数学者として独自の哲学なるものを持ち、一方で「数学の詩人」と言われるように表現に卓越した才能を持っていたことで知られエッセイ集「春宵十話」を執筆。(参考元:岩波新書『岡潔 数学の詩人』より)

(出典元:文化勲章受章者 世界的数学者「岡 潔」数学に対する熱意と偉業、情緒という日本人の心の大切さを未来に引き継ごう

これが数学の詩人と呼ばれる理由です。

金曜ロードショー、特別企画 読売テレビ開局60年スペシャルドラマ「天才を育てた女房~世界が認めた数学者と妻の愛~」は【放送日程】2月23日(金)21時~【放送局】日本テレビ系にて放送。

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