高畑勲監督 晩年ジブリ作品を映像でふり返る。死因は肺がんで死去、入退院繰り返していた。

日本アニメーション界の巨匠・高畑勲監督が5日午前1時19分、死因は肺がんのため82歳で死去。14年には、権威ある国際アニメーション映画祭の名誉功労賞を受賞。ジブリの設立に参加し、「風の谷のナウシカ」(84)「天空の城ラピュタ」(86)などの製作に関わり、「火垂るの墓」(88)で監督デビュー。「かぐや姫の物語」(13年)なども手がけ、じっくり時間をかけて製作するスタイル。晩年ジブリ作品と共に、歩んだ経歴を振り返る。

高畑勲監督の死去、死因は肺がん。

アニメーション界の巨匠・高畑勲監督が5日午前1時19分、死因は肺がんのため82歳でこの世を去りました。

高畑勲監督、入退院繰り返していた。

関係者によると、高畑監督は昨年の夏頃に体調を崩し、その後入退院を繰り返し、昨年11月に高畑監督に会った別の関係者によると、以前よりも痩せていて、歩く時は体を支えられていたといいます。「子供のような好奇心でキラキラした表情が印象的な人だが、元気がなく、全く違った人みたいだった」と回顧しました。

高畑勲監督は、宮崎駿、鈴木敏夫らと共に、ジブリスタジオ設立に寄与した人物です。ジブリに捧げた人生と共に、その経歴や作品を振り返りたいと思います。

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高畑勲監督のプロフィール


名前:高畑勲(たかはた いさお)
生年月日:1935年10月29日
出身:三重県伊勢市
学歴:東京大学文学部仏文学科卒

◆あだ名は、食パン好きのパクさん。共産党を支持。

著書に「映画を作りながら考えたこと」「十二世紀のアニメーション」など。98年に紫綬褒章受章。14年に仏アヌシー国際アニメーション映画祭で名誉賞、15年に仏芸術文化勲章のオフィシエを受章。元同僚の人びとから呼ばれる愛称「パクさん」は、東映動画時代に高畑がよく遅刻してアンパンをパクパク食べていたことからついたニックネーム。音楽に関しては特に造詣が深く、アニメ映画「かぐや姫の物語」(13年)では、挿入歌の「わらべ唄」「天女の唄」を作曲。
組合活動以来の縁で選挙では一貫して日本共産党を支持していたとされる。

高畑勲監督のアニメ人生、経歴と作品

◆大学卒業後から宮崎駿監督との出会いまで

在学中にポール・グリモー監督の仏長編アニメ「やぶにらみの暴君」に感銘を受け、アニメーション映画を作る事を決意。
59年、東映動画(現・東映アニメーション)に入社、68年に劇場用長編「太陽の王子 ホルスの大冒険」で監督デビュー。

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同社在籍中に、労働組合活動や仕事を通じ、後輩の宮崎駿監督と知り合い、71年宮崎駿らと共にAプロダクションに移籍。『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』の土台を築き、74年にはズイヨー映像で「アルプスの少女ハイジ」、日本アニメーションで「母をたずねて三千里」(76年)や「赤毛のアン」(79年)を演出。

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◆ジブリスタジオ設立からジブリ監督デビューまで

宮崎駿監督「風の谷のナウシカ」(84)でプロデューサーを務めた高畑勲監督だが「『柳川堀割物語」で巨額の資金を投じるものの、作品は作品は失敗に終わりる。製作費を回収するために「天空の城ラピュタ」(86)を製作することとなるが、その際に、「ならいっそのことスタジオを作ってしまいませんか」とジブリスタジオ設立を宮崎駿と鈴木敏夫に提案したのは、高畑勲監督だった。「火垂るの墓」(88)で監督デビュー、監督作品には、「おもひでぽろぽろ」(91)、「かぐや姫の物語」(13年)などがある。

かぐや姫の物語は、高畑勲監督が三重県出身ということもあり、「作品には農村志向、地方への憧れがある。三重で友達と野原を歩いたりした経験が原点となった」とのこと。高畑監督を講演会で招いた三重県生涯学習センター長島洋所長(60)は「当時80歳だったが、『まだまだ頑張る』と言っていた。三重にまた来てくれるようお願いし、次の作品も期待していたのに残念です」と話しているとのこと。(参考元:毎日新聞

通夜、葬儀は近日中に営まれるとのこと。
ご冥福をお祈り申し上げます。

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